東海道五十三次
東海道五十三次
(5月24日土曜日)

第一回 日本橋から神奈川宿


45名(男15名・女30名)バスは満員状態です。
江戸の日本橋を起点に京都の三条大橋まで 126里6丁1間(約496km)

慶長8年(1603年)に日本橋川に 架けられ、この付近の河岸から江戸市民が消費する物資が荷揚げされた。
橋の南北には商業が発達し、各種問屋が軒を並べ大変賑わった 江戸時代、この橋は日本の中心で、中山道・東海道など 五街道の起点であった。




● 日本橋から始まります

史蹟
大正12年(1923年)の関東大震災までは魚河岸は
この地にあった


○ 京橋へも寄りました
「きやうはし」とある史跡「江戸歌舞伎発祥の地」と書かれている




● 宿場町(1)品川宿です

バスを降り、側道の坂道を歩くと道幅5mぐらいの商店街の道に出ました。
東海道品川宿です。本陣跡の聖跡公園は お祭り準備で足場が築かれていました。
街道のお店の看板に宿場町の匂いを残しているのがありました。
本陣あと 説明板
品川宿 看板1
看板2 看板3
英国公使館焼き打ち説明 荏原神社


○ 鈴が森刑場跡にも寄りました

東海道に面し、慶安4年(1651)に開設され由比正雪の乱に関わった
丸橋忠弥や、八百屋お七、白井権八らが処刑された所
首洗い井戸や鬚題目の碑がありました。
刑場跡 首洗い
説明 説明1





● 宿場町(2)川崎宿です

東海道の交通を遮る障害であった多摩川に慶長5年(1600)六郷大橋を架けたが、
元禄元年(1688)大洪水で流された。以後、家康は江戸防御のためか
橋をかけず、舟渡しとなり渡し船の収入が宿の財政を支えたとか。
六郷の渡し 本陣跡 本陣跡

多摩川の土手に六郷の渡しの説明板がありました。
川崎宿名物であった「奈良茶飯」の万年屋の後はマンションになっています
田中本陣跡は本町一丁目交差点そばでした。

○ 生麦事件碑に立ち寄りました

文久2年(1862)薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が、藩士によって殺傷された事件。
事件の碑 追悼記念

国道15号に面し、キリンビールの正門横にありました。





● 宿場町(3)神奈川宿です

日本橋を出て三番目の宿場町。滝の川に架かる「滝の橋」の東側に
神奈川(石井)本陣、西側に青木(鈴木)本陣があった。

安政元年(1854)日米和親条約締結の舞台で、
四年後に結ばれた日米修好通商条約で神奈川が
開港場と決められたが、後に横浜に変更された。

開港当時、多くのお寺が諸外国の領事館などにあてられた。


高札場は、神奈川警察署西側にありましたが現在は横浜神奈川地区センターの前に、資料をもとに復元したものがあります。

成仏寺「史跡・外国宣教師宿舎跡」の石碑あり。ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士の宿舎にもあてられた



浄滝寺「史跡・イギリス領事館跡」の石碑がある
上、甚行寺 「史跡・フランス公使館跡」

左、宗興寺 ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し入院患者もいたという。

本覚寺・山門右手に「史跡・アメリカ領事館跡」の石碑がある。横浜開港当日、アメリカ公使ハリスらは、境内の松に星条旗を掲げ国歌を合唱して祝ったとか。




第一回目は神奈川宿まででした。

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