東海道五十三次
(6月14日土曜日)

第二回 保土ヶ谷宿から大磯宿


今回私の居住する周辺で、大型バスが通れない昔の東海道や交通量の多い主要道で、停車や駐車ができなかった場所が多数あり、後日再度訪ねてみた。権太坂(大学駅伝のコース)は五十三次から外れていることも知りました。
また、保土ヶ谷の軽部本陣跡は古い住宅に子孫がお住まいで表札がかっていました。
普段この付近で生活していても藤沢・平塚・大磯と、それぞれ初めて知ったことがありました。



● 保土ヶ谷宿あたり(4)

バスでは保土ヶ谷駅東口を通ったが、旧東海道は西口側にある。
これからもバスで巡る限り同じ場所が多いであろう。
小田原北条氏の家臣刈部豊前の守康則の子孫といわれる刈部家が代々務めた。
明治3年(1870)軽部姓に改称し現在に至っているそうです。
すぐそばに脇本陣(藤屋)跡の標柱がありました。
軽部家
保土ヶ谷宿本陣跡(軽部家)と塀の説明板(右と下)
説明板
石碑


○ 江戸を出た旅人が初めて出会う難所、権太坂
権太坂を登った「境木地蔵尊」バス停付近に武相国・相模国の国境標柱があり、
五十三次関係の道標に左東海道・右環状2号の石柱もありました。
牡丹餅坂 投げ込み塚
権太坂の境木バス停付近の説明板坂の途中で行き倒れになった人を葬った





● 戸塚宿あたり(5)

戸塚駅東のスーパーダイエそばに、江戸見付跡の石碑あり
このあたりから戸塚の開かずの踏切で有名な東海道線を越え、
大坂という坂を登り切ると国道一号と合流する。このあたりまでが戸塚宿か。
江戸見付 石碑
吉田大橋 吉田大橋
郵便切手になった広重の戸塚は、柏尾川に架かる吉田橋。昭和61年に架け替えられた橋に広重の絵がありました





● 藤沢宿あたり(6)

藤沢と言えば「時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)」
通称遊行寺です、その遊行寺で一息ついて境川を渡り国道を右に行くと、古建築の建物で「紙」屋さん?。
歩道の車道寄りに「東海道藤沢宿、昔話のある街」という立て札があった。
車道の向こう側先の消防署の前に「藤沢宿坂戸町問屋場跡」の標柱がある。
遊行寺 古建築
遊行寺本堂古建築で紙を扱っているお店
説明板 説明板 標柱
歩道側に書いてある字句車道側の字句藤沢宿標柱


○ 源義経首洗い井戸もありました
白旗交差点そば、交番裏にマンションに挟まれた狭い公園があり「源義経史跡」の石塔がありました

説明板 井戸
石碑 石碑





● 平塚宿あたり(7)

藤沢から茅ケ崎のTOTO工場を左に見ながら進むと、
茅ヶ崎駅近くの交差点左に一里塚がある。
相模川の馬入橋を渡り旧国道(1号線)を西へ、
平塚宿は現在の中心地から少し西側にある。
平塚宿江戸見附 江戸見付
京見付 京見付
江戸側にあるのを「江戸見附」京側にあるのを
「上方見附」と呼ぶ。

平塚宿はこの間東西に14町6間(約1.6km)その中に本陣・脇陣・高札場・旅籠などがあり街並みが続いていた。

平塚宿は、市民センターから古花水橋交差点までであった。
石碑


○ 番町皿屋敷のお菊塚にも寄りました
説明板 塚





● 大磯宿あたり(8)

国道沿いの大磯役場脇に小田原の崇雪が建てた草庵「鴫立庵」があり、
虎御前碑や西行上人歌碑その他句碑などがある。

新島襄は大磯の旅館、百足屋で47歳の生涯をとじたので碑がありました。
湘南発祥の地 新島襄の碑
鴫立庵
鴫立庵
大磯に「湘南発祥の地」という石碑があり、説明板(湘南発祥の地大磯の由来)に『崇雪という人が寛文4年(1664)頃西行法師の詠んだ名歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」を慕って草庵ををここに結び標石を立て東海道を往還する旅人に鴫立沢を示し「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのがはじめです。中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ていることから湘南と呼ばれるようになった』
とありました。





余録、小田原城の「アジサイ」と「あやめ」です。
アジサイ あやめ

6月14日 小田原城の風景です。


保土ヶ谷から大磯まで終わり

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