東海道五十三次
(12月17日・18日・19日 水・木・金)

第八回 桑名宿から京・三条大橋


順調に最終回を迎えました。二泊三日は何となく重い感じだが、今回が最終回、頑張るぞ〜という感じで家を出る。

土日コースと平日コースがあって、殆んど土日コースで参加したが、今回は、都合により平日コースで参加した。

土日コースの方が人数も少なく年代も若い、最近五十三次をすでにひとめぐりした方もいて街道に詳しい方がいました。
平日コースは、参加者が多く今回は33名の団体でした。

バス旅なので、今回も道が狭く一方通行で大型バスでは通行不可とか、また、関宿のように東追分より入り中間の地蔵堂駐車場まで歩き、西追分は車窓からで通過。とか、同じようなことが度々ありバスで巡る限界を感じました。




● 桑名宿あたり(42)

桑名宿と宮宿の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28km)あることから、七里の私と呼ばれた。
ちょうど伊勢国の東入口に当たるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781〜1789)に建てられました。
昭和33年三重県指定史跡となったが昭和34年の伊勢湾台風によって、甚大な被害を受けた
現在は堤防が築かれたため、遺跡の風景は、江戸時代と異なる。
城址にある九華公園は広々とした堀に囲まれ、桜、つつじ、花菖蒲などの名所のようだ。
公園の一角に東海道五十三次ミニチュア版日本橋から三条大橋までが作られていた。
また、松坂牛の「柿安本店」があった。
△ 伊勢神宮の「一の鳥居」
説明
本陣 脇本陣
△ 本陣陣跡の料理旅館船津屋△ 脇本陣跡の料理旅館山月
△ 春日神社の青銅鳥居△ 春日神社山門




● 四日市宿あたり(43)

江戸中期から末期にかけて、旅籠だけでも千軒、商家は200軒余りの街道屈指の規模であった。
旧市街地は戦災で破壊され、宿内の遺構はすべて失われた。
日本武尊が伊吹の賊を討ち病に倒れ、剣を杖に越えたという伝説のある急な坂道「杖衝坂」
坂の途中に石碑と並んで芭蕉の句碑がある。
説明板
石碑と井戸 芭蕉句
△ 弘法大師が杖で指したところに清水づが出た? △ 芭蕉句の碑
血塚社 石碑
△ 奥の碑が日本武尊△ 史跡の碑
坂道 坂道
 「杖衝坂」を撮りましたが急坂の様子がわかるでしょうか?坂の撮り方が下手ですね
近鉄追分駅の手前に伊勢街道との分かれ道、追分の遺跡がある(分岐点)交通量が多いいので、と、車窓で通過した。残念




● 石薬師宿あたり(44)

宿の規模は小さく、農家が多かった。幕末の公式調査では旅籠の数が15軒で、
西隣りの庄野とともに街道中で一番少ない。街道の西側には小沢本陣跡があり、
向いには園田家が務めていた問屋場があった。
歌人で国文学者の佐々木信綱の生家があり、小沢家から寄贈された
本陣跡に立つ建物が資料館となっていて、遺構や資料が収蔵されている。

説明板 本陣跡
資料館 信綱生家
△ 佐々木信綱資料館△ 信綱生家
石薬師 石薬師寺
△ 石薬師寺山門△ 石薬師寺本堂
石薬師寺には、佐々木信綱や一休禅師の歌碑があり、この宿は付近一帯どこに行っても佐々木信綱の歌碑があった。




● 庄野宿あたり(45)

全体的に農村の住宅地風だが、古い建物も多く小林家を除き格別目立つ建物はない。
小林家(旧屋号油屋)は鈴鹿市に寄贈され、資料館として公開されている。
残念ながら、資料館は休館日で江戸時代の商家の内部は見学することができませんでした。
小林家 問屋場
△ 小林家(旧屋号油屋)△ 問屋場跡
街並み 本陣跡
△ 現在の町並み△ 庄野宿本陣跡





● 亀山宿あたり(46)

三重県内唯一の城郭建造物として、県史蹟に指定された櫓、石塁は、粉蝶城とも呼ばれたとか。
さらに、三重県下で現存する野村一里塚、我が国の交通史上で重要な遺構として国史跡に指定された。
幹回り6m 樹齢約400年の椋(むく)が年輪を重ねている。
亀山城多門櫓 石表示
△ 亀山城多門櫓△ 石碑
椋の樹 石碑
△ 野村一里塚 樹齢約400年の椋の樹△ 一里塚石塔

「ホテルルートイン亀山インター」で宿泊しました。隣接して地ビールの売店があり、夕食を摂りました。




● 関宿あたり(47)

難所の鈴鹿峠の麓に繁栄した宿場町。東海道唯一「伝統的建造物群保存地区」に定められ、
1.8kmわたり狭い道幅など街並みがそのまま生きた宿場博物館となている。
本陣 本陣
△ 川北本陣跡△ 小沢本陣跡
郵便局 百五銀行
△ 郵便局です△ 銀行です
玉屋 石碑
△ 関宿代表的な旅籠△ 父親の仇討をした小万墓
町並み 町なみ
△ 約2km近く続く江戸時代さながらの町並みを散策
織田信孝の菩提寺福蔵寺境内には小万の墓や碑があり、近くの地蔵院の愛染堂は国の重要文化財になっている。




● 坂下宿あたり(48)

江戸時代は、東海道五十三次の四十八番目の宿場町として賑わいがあり、
東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。
江戸時代後半には本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒を数える東海道有数の宿であった。

鈴鹿川の向こうに、「筆捨山」がある。「狩野元信」が景勝に心ひかれて絵に描こうとしたが、
激しく変わる気象の変化に筆が及ばず、ついに筆を投げ捨てたので「筆捨山」と呼ばれるようになったという伝説がある。
本陣跡 石碑
△ 茶畑となっている大竹屋本陣跡△ 大竹屋本陣跡石柱
本陣跡 石碑
△ 小竹屋本陣跡△ 小竹屋本陣跡石柱
現在の街道 石碑
△ 現在の街道△ 本陣跡の石柱





● 土山宿あたり(49)

鈴鹿峠を越えれば、滋賀県(近江)土山。道の駅を左に見て交差点を右折すると、
鈴鹿山中の鬼を退治した「坂上田村麻呂」を祭神として祀っている『田村神社』がある。
また、森鴎外の祖父の墓がこの地にあり、森鴎外が墓参りに立ち寄り一泊した
旅籠「平野屋」があった。さらに、寄付された屋敷を「東海道伝馬館」
として改修し、東海道や宿・伝馬制度をテーマにした展示を行っている。
田村神社 田村神社
△ 鈴鹿の鬼を退治した、坂上田村麻呂を祀っている「田村神社」
鴎外の碑 平野屋
△ 森鴎外来訪の碑と鴎外が宿泊した旅籠「平野屋」
伝馬館 説明者
△ 土山宿の情報館「東海道伝馬館」△ 伝馬館で説明をしてくれた方
問屋場 大名行列
△ 問屋場を再現△ 参勤交代の大名行列の模型
伝馬 問屋場
△ 伝馬△ 問屋場での仕事
本陣 本陣
旅籠 本陣
△ 家々の軒に屋号がいまも下がり、本陣・問屋場・旅籠などとある
鴎外の碑 平野屋
△ 旅籠の石塔△ 現在の町並み






● 水口宿あたり(50)

東海道中でも珍しいといわれている、「三筋の通り」があるそうだが、
近江鉄道「水口城南口駅」の踏切を越え・・・あそこが水口城跡・・・とかでバスは通過
水口高校脇を通り水口宿を出たところ(外れ?)野洲川(横田川)の「横田の渡し跡」へ。
小さな公園になっていて高さ10mの常夜灯が建っていた。
説明板に、『この巨大な石燈籠は、文政年間(1822年)増加する旅人の目印となるよう、
泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人溝中によって建てられたものです。・・・』とありました。
説明板
常夜灯 説明板





● 石部宿あたり(51)

宿場は、二つの本陣と六十二軒の旅籠と数多くいの商家があったようだが、
道が狭く且つ曲がっているのでバスは通ることができない。
と、先の水口宿同様宿入口の小公園にある、江戸時代宿内に入る前に
行列を正し整列した場所で「西縄手」と呼び松並木があった。という地でとりあえず下車。
西縄手 宿場の現在
△ 西縄手宿場の一部





● 草津宿あたり(52)

草津宿は、今でいえば高速道のジャンクションのようで、二つの街道の交差点。
東海道と中山道の分岐点、中山道が川の下のトンネルをくぐっている。
説明板
道標 道標
高札場 宿場
△ 高札場△ 現在の宿場の一部
本陣 説明
△ 本陣入口△ 説明者から説明を聞きました
本陣釜戸 本陣座敷
△ 本陣かまど(台所)△ 本陣内座敷





● 大津宿あたり(53)

大津の宿へ入る「瀬田の唐橋」を渡る頃は、日の短い師走の夕闇がせまり暗くなってきた。
木曽義仲と芭蕉の墓が背中合わせにある、「義仲寺」へ寄った。
義仲に限りない親愛の情を抱いた芭蕉は、義仲のかたわらに葬ってほしいと遺言したとか。
説明板
山門 芭蕉墓
△ 義仲寺山門△ 芭蕉の墓
義仲墓 巴墓
△ 義仲の墓△ 義仲の妻 巴の墓
あたりが暗くなって逢坂の関を通過した。一路今夜の宿泊先京都四条の三井ガーデンホテルへ。




● 東海道終点 京三条大橋

バスで巡る東海道五十三次もいよいよ最後。朝8時半にホテルを出発して三条大橋へ、
「高山彦九郎皇居望拝の像」を見て大橋を渡り河原へ下りる。
彦九郎 ヤジ喜多
△ 皇居を遥拝している高山彦九郎の像△ 弥次喜多象
説明板
三条大橋
△ 木造欄干の擬宝珠に歴史が刻まれている。
この橋を最終行程に旅をして来たので、渡る気分は普段と違いますね
三条大橋
△ 川原で全員で万歳をした後記念写真を撮りました