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今年の春節は、1月29日で日曜日と重なり、横浜中華街は大変な人出で混雑したとNHKのニュース番組で放送され 二週間お祭りは続く、とか聞いたような気がした。
妻の都合がよいときで、お天気が良ければ行ってみてこようか、 ついでに、三渓園も暫らく行っていないのでと、2月7日午前中は曇りだが午後からは春のように暖かくなるという予報を 信じて11時過ぎに出かけました。

まずは横浜三渓園からです。 (開園100年にあわせ門柱の復元工事をしていました)

横浜三渓園

受付 大池
三渓園入り口園内側より 大池の渡り鳥
白鷺 鵜
園内の白鷺 大池の鵜


横浜三渓園(内苑)の古建築物

生糸貿易で財を成した横浜の実業家「原 富三郎(三渓)」の元邸宅。彼はここに京都や鎌倉などから歴史的に 価値のある建築物を移築し、明治39年(1906年)「三渓園」として一般に公開した。約53,000坪の 園内に10棟の重要文化財を含む17棟の古建築物が四季折々の自然の景観の中にたくみに配置されている。
世界大戦で大きな被害を受けたが、昭和28年(1953年)財団法人三渓園保勝会の手に移され復旧工事が 行なわれ、5年後にはほぼも昔の姿を取り戻した。

鶴翔閣

「鶴翔閣」(横浜市指定有形文化財)
(旧原家住宅)原富太郎(三渓)が明治30年代に自邸として建てた住宅で、楽室棟・茶の間棟・ 書斎棟・客間棟・仏間棟・倉などの建物群で構成されています。この建物は居住用と来客用の機能を合わせ持ち、 横浜市域の近代和風建築を代表すると共に、横山大観ら日本美術院の作家たちがたびたび出入りし、近代の画壇に 大きく貢献した記念物としての価値も認められます。
御門

「御門」(横浜市指定有形文化財)

園内、内苑入り口にあるこの門は、
京都の西方寺に宝永5年(1708年)頃造営され、 大正初期に三渓園に移築されたものです。
規模の大きい薬医門(本柱の後方に控柱を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)の遺構として貴重なものです。

白雲亭

白雲亭(横浜市指定文化財)

この建物は原三渓が大正9年(1920年)隠居所として建てた数奇屋風建築で明治以降のおける近代和風建築を代表 するものです。
建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を兼ね備えた配置や 間取りになっています。

公開日が指定されているようで門内に入る事が出来ませんでしたので、建物の写真は ありません。
臨春閣

臨春閣(重要文化財)
紀州候初代の徳川頼宣によって慶安2年(1649年)、和歌山県那賀郡岩出町の紀ノ川沿いに建てられた夏の別荘 巌出御殿といわれています。
8代将軍吉宗は幼児この巌出御殿に育ち、享保元年(1716年)に将軍になりました。
また、この建物は数奇屋風書院造として、宮家別荘桂離宮と共にわが国住宅史上において別荘建築の双璧といわれています。
三渓園には、大正6年(1917年)移築されました。
月華殿

月華殿
徳川家康が慶長8年(1603年)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控え室に当てたものと伝えられています。
その後京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院に移され、大正7年(1918年)三渓園に移築されました。

金毛窟

金毛窟
原三渓が大正7年(1918年)に建てた一畳台目の茶室です。
千利休が修造した京都大徳寺三門(金毛閣)の 高欄の手すりをこの茶室の床柱に使っています。
扁額は明治の数寄者・三井の益田鈍翁の書です。
天授院

天授院
もと鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂といわれています。大正5年(1916年)に三渓園に移築され、原家では これを持仏堂として使っていました。
昭和39年に解体修理を行い、その際慶安4年(1651年)の墨書きが 発見され、建立の年が明らかとなりました。
聴秋閣

聴秋閣(重要文化財)
もと三笠閣と呼ばれ、元和9年(1623年)3代将軍徳川家光が上洛に際し、佐久間将監に命じて京都二条城内に 作らせたものといわれています。その後これを春日局に賜り、江戸稲葉候邸内に移され、三渓園には大正11年 (1922年)に移築されました。




春草廬

春草廬(重要文化財)
もと京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院にあった月華殿に付属して建てられていた茶室です。三渓園には大正7年(1918年) 月華殿と共に移築されました。窓が九つあるため九窓亭と呼ばれていました。
信長の弟・織田有楽斉(1547〜1621) が建てたものと伝えられ、三畳台目の茶室です。
蓮華院


蓮華院

この建物は、原三渓が大正6年(1917年)に建てたもので、六畳と二畳中板の茶室があります。
土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子があります。
寿塔覆堂

旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)

寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため 京都大徳寺内に天寿寺を建てました。
功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592年)石造りの寿塔を 建てました。
この建物はその寿塔の覆堂で、明治35年(1902年)三渓園に移築されたものです。
なお、寿塔は現在 大徳寺内、竜翔寺にあります。
石棺

石棺
【家形石棺・奈良海竜王寺付近出土(5〜6世紀)】
舟形石棺蓋・奈良宝華寺付近出土(3〜4世紀)も付近にあったようですが、気がつかず見落としたようです。

内苑は、昭和33年(1958年)の公開まで、原家の私庭であったエリア。古建築で構成された瀟洒な庭のつくりが楽しめます。 中でも江戸時代初期の紀州徳川ゆかりの臨春閣の景観は、京都・桂離宮と対比されるものです。(三渓園栞より)

横浜三渓園(外苑)の築物

三重塔

旧燈明寺三重塔(重要文化財)
もと京都府相楽郡賀茂町の燈明寺にあったものを大正3年(1914年)三渓園に移築したものです。寺伝によりますと燈明寺は天平7年 (735年)聖武天皇の勅願によって建てられた寺院とされています。建物の様式などから、室町時代に建てられたものと推定されます。 関東では最古の塔です。
横笛庵

横笛庵

高倉天皇中宮礼門院に仕えた横笛と平重盛の家臣滝口入道(斉藤時頼)との悲恋は有名です。
横笛は寺にこもり入道から送られた 千束の恋文をもって己の像をつくりました。その像がこの庵に安置されていましたが第二次大戦中に被害を受けて失われてしまいました。

外苑は、明治39年(1906年)の開園にあたり一般に公開されたのがこの外苑エリア。京都・燈明寺 から移された三重塔がランドマークとして配され、四季折々の花を中心に楽しめます。(三渓園栞より)

今回は、2月上旬に伺ったので花はありません、建築物のみ掲載しました。

合掌造り

合掌造・旧矢箆原家住宅(重要文化財)
もと岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありました。江戸時代宝暦年間(1751〜1764年)飛騨三長者の一人といわれた岩瀬の (矢箆原)佐助の家として飛騨高山の大工によって建てられたと伝えられています。
御母衣ダムの建設によって湖底に沈む運命に なりましたので、所有者矢箆原家(やのはら)から三渓園に寄贈され、昭和35年(1960年)移築されました。
この建物の特徴は、 左半分が式台付玄関をもつ書院造りで、左右でまったく異なる形式構造を持っていることです。これは上流農家の平面を示しています。 屋根は入母屋造りで、火灯窓が珍らしく、この家の格式の高さを物語っています。
仏殿

旧東慶寺仏殿(重要文化財)

この建物は、室町時代永世6年(1509年)直後に再建された鎌倉東慶寺の仏殿です。明治40年(1907年)三渓園に移築されました。 東慶寺は弘安8年(1285年)北条時宗の妻覚山尼が創建した寺院で駆け込み寺あるいは縁切り寺として有名でした。


どのような経緯で、鎌倉東慶寺の仏殿が移築されたのか説明書きがありませんでした?。

調べて追加説明をしなければいけませんね。


本堂

旧燈明寺本堂(重要文化財)

燈明寺は現在廃寺となっていますが、近年まで京都府相楽郡賀茂町に所在した日蓮宗の寺院です。寺伝によりますと聖武天皇の勅願によって 天平7年(735年)に開創されたといわれています。
この建物は、様式上、室町時代初期に建てられ たものと推定されます。昭和62年(1987年)に三渓園に移築されました。
天満宮

三渓園天満宮

この天満宮はもと間門天神といい、三渓園に程近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。

昭和52年(1977年)三渓園に 移築されました。



生糸貿易業そして製糸業で名を馳せた実業家・「原 三渓」が、京都や鎌倉などより古今の名建築の数々を集め、三渓園を一般に公開したのは 明治39年のこと。昔の事業家で成功された人は、スケールが違いますね。

横浜中華街

今度の土日まで春節のお祭りが続いていて、賑やかな中華街だろうと思って行ったが、平日だったからか閑散としていた。 お店の人にお祭り中ではないの?と聞くと、今年の春節は日曜日と重なったので人では多かったが、今度の土日には人出があるかも?ということであった。 とりあえず、あちらこちらとお店をのぞき、外から厨房が見え餃子を作っているところがみえたお店で夕食を食べてきました。
中華街 関帝廟
朝陽門から撮影

三渓園からバスで来たので朝陽門から中華街へ入りました。朝陽門側から中華街大通りを撮ってみました。
関帝廟
1862年ごろ、一人の中国人が山下町140番地あたりにささやかな廟を建てたことが日本で最初の関帝廟建立の起源。 その後、大震災などで3度焼失にあいましたが1990年に現在の4代目が完成。
祭神は、三国志で有名な 蜀の武将「関羽」。他に観音菩薩・地母娘娘・土地公の三体が祀られている。

現在、2006年3月17日開廟予定で「横浜媽祖廟」が造られている。媽祖は原名を「林黙娘」といい、宋の建隆元年 (紀元960年)旧暦3月23日に生まれた。生前、島民のために病気の治療をするほか、天気を予測することもできたため 、漁民を不意の台風などの危険から守ることができた。「林黙娘」は28歳のその年の旧暦9月9日にこの世を去った。 後に、人々はその徳をたたえ、び州島で媽祖廟を建てて祭り、海の守護神として崇められた。

地図
横浜中華街店舗案内図

平成18年2月11日作製
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