中山道六十九次
(平成21年8月6・7日(木曜日・金曜日)

今回は、鹿教湯温泉へ泊る一泊二日の行程でした。

中山道をたどる旅も、甲州街道と下諏訪で交わる今回で終わり。次は、甲州街道です。
どちらの街道が旅をし易かったのか、検証してみたいと思います。


第五回 岩村田宿から下諏訪宿



● 岩村田宿(22)

内藤氏一万五千石の城下町。西へ善行寺道、南へ甲州街道、東へ下仁田街道と分岐する交通の要所だが、
城下町のためか旅人の宿泊は少なかったという。本陣・脇本陣はなく、旅籠も8軒しかなかった。

徳川家10代の位牌や、小諸藩主だった仙石秀久の位牌がある浄土宗のお寺「西念寺」へ立ち寄りました。

黒松と赤松が一つの根っこから生えた松があり「相生の松」の名が縁起が
よいので、皇女和宮様降嫁の際にも輿を止め、御野点小休をとったと
言われている双木を、雨の降りしきる中撮ってきました。
位牌 位牌
△ 徳川家初代から10代までの位牌△ 仙石秀久の位牌
相生の松 かなり強い雨降りであったが
縁結び、長寿の象徴とされ
和宮様も縁起が良いということで
お休みになった相生の松を撮りました。

レンズに雨がつき、よい画像ではありませんが



● 塩名田宿(23)

川幅が80mの千曲川の難所を控え賑わった宿場町だったようです。雨の中での撮影です。
本陣 旅籠
△ 問屋本陣丸山家△ 塩名田宿でも最も古式の町屋様式を伝える
旧家 お人形
△ 大和川の屋号の旧家△ 雨の日に見つけた(テルテルボーズ?)
道祖伸 休み茶屋
△ 女性が念仏を唱和して健康や出産の無事を祈念した十九夜塔・道祖神△ 休茶屋の木造3階建の建物





● 八幡宿(24)

塩名田宿から千曲川を渡った宿場で、宿場名になった八幡神が宿場入口にある。
境内の高良神社は室町中期の創建で、国の重要文化財に指定されている。
八幡神社は旧名を高麗社といい、古代、馬の飼育法を教えに渡来した高麗人を祀った社だといわれている。

八幡宿の規模は小さく、遺構も少ないが本陣小松家の表門がありました。
旧中山道 楼門
△ 旧中山道△ 八幡神社楼門
高良神社 本陣
△ 国指定重要文化財高良神社△ 八幡宿本陣跡





● 望月宿(25)

本陣跡に民俗資料館があり、縄文時代の出土品や平石遺跡の復元住居を始め
望月の駒の歴史宿場の往時を物語る資料が展示されている。

旧街道 祝言道祖神
△ 旧街道△ 宮廷貴族の装いをした祝言道祖神
瓜生坂 一里塚
△ 瓜生坂の碑△ 瓜生坂の一里塚
町なみ 脇本陣
△ 宿場の町並み△ 脇本陣
資料館 資料館内
△ 本陣跡の歴史民俗資料館△ 歴史民俗資料館内部
士官学校校長の机 軒先の下駄
△ 資料館に何故か?旧陸軍士官学校校長の机があった△ 軒先につるされた下駄



間の宿「茂井田宿」に漆喰壁の酒蔵があり、この酒蔵の裏手で藤沢修平の「たそがれ清兵衛」が撮られた。
若山牧水も酒造会社をたびたび訪れ塩を肴に愛飲した。歌碑があった。

酒蔵 看板
△ 酒蔵△ 「中山道宿場乃地酒造処」と看板




● 芦田宿(26)

芦屋宿は、慶長二年(1597年)に設立、江戸幕府の交通政策施行(慶長六年)より四年前で
北佐久では一番早くできた。「県宝」の旧芦屋宿本陣土屋家住宅は、江戸後期の様式をよく表しており、
桟瓦葺きの屋根に鯱をかかげている。土屋家は問屋を兼ね芦屋宿の開祖でもあった。本陣御殿(客室)は
寛政12年(1800年)に再建されたもので、往時をそのまま伝える建物は、中山道唯一と言われている。
旧街道 本陣
△ 旧街道の現在△ 芦屋本陣(土屋家)門
鯱鉾 鯱鉾
△ 鯱 その1△ 鯱 その2
脇本陣1 脇本陣2
△ 脇本陣 山浦家△ 脇本陣跡
旅籠 赤松並木
△ 旧旅籠、現在も営業している金丸土屋旅館△ 笠取峠の赤松並木




鹿教湯温泉に一泊です



チョイとさびれた旅館?湯治場ですね。
近所にライトアップした
「薬師堂」と「文殊堂」がある。

薬師堂 文殊堂
△ 薬師堂△ 文殊堂




● 長久保宿(27)

長久保宿は慶長7年(1602年)中山道制定に伴い、真田氏の配下で宿場成立後に、
本陣・問屋を務めた石合氏、問屋を務めた小林氏が中心になり設けられた。
寛永8年(1631年)洪水によって流失したため、段丘の地に移り本陣・問屋を中心に東西方向に
「竪町」を形成し宿場が賑わうにつれ南北方向に「横町」を形成しL字型の宿場となった。

中山道の宿場として、塩尻宿に次ぐ旅籠数の多い宿場であった。
宿場の前後に笠取峠や和田峠の難所を控え、北国街道など交通の要所
さらに温泉場の下諏訪で宿泊した場合日程的に都合が良かったのか。
旧街道 浜屋
△ 旧街道の現在△ 一福処濱屋
本陣 脇本陣
△ 長久保宿本陣 石合家△ 脇本陣跡
濱田屋旅館 旧街道
△ 現在も営業中の濱田屋旅館△ 旧街道




● 和田宿(28)

中山道最大の難所、標高1600mの和田峠を越え下諏訪宿まで22キロの長い距離を歩く重要な宿場。
冬の峠越えは困難を極め、雪堀人足が道をあけ荷物は馬では無理なので人足が担ぎあげたとか。
幕府は峠の唐沢・東餅屋・西餅屋・樋橋・落合の5か所に休みどころの設置を許可した。

現在和田本陣を始め古い建物が残っている。本陣永井家の居住棟と表門、
旅籠「かわち屋」を改造した「歴史の道資料館」「黒耀石石器資料館」がある。
本陣 脇本陣
△ 大火で焼失したが和宮降嫁に備えて再建された△ 脇本陣翠川家
本陣 本陣
△ 和田宿本陣で説明者が丁寧に説明してくれました
黒板地図
△ 説明用に黒板に書かれた地図。わかりやすく説枚も上手でした
手書き中山道
降嫁日程
△ 皇女和宮の下向日程と御宿泊された各宿場名などなど
和田宿 旅籠
△ 和田宿現在の町並み△ 旅籠 大国屋?
資料館 説明
△ 旅籠かわちや 現在は資料館となっている。 管内で説明をしてくれました
食堂? 昼ごはん
△ 和田宿農家レストラン「かあちゃん家」古代米のご飯でおやきもありました
一里塚あと 接待所
△ 江戸より五十里 一里塚跡△ 国史跡 永代人馬施行所(和田峠接待茶屋)
浪人塚 浪人塚2
△ 下諏訪宿へ寄った方に、水戸浪士と松本諏訪の連合軍が戦い、戦死した水戸浪士10人余を埋葬した浪人塚




● 下諏訪宿(29)

中山道と甲州街道の分岐点。和田峠と塩尻峠に挟まれた交通の要衝の地であり、
また、諏訪大社下社の門前町として栄え、中山道唯一の温泉の湧く宿場であった。

江戸時代は旅籠までお湯が引かれておらず、旅人は問屋場隣にあった、共同浴場を利用したそうです。

下諏訪宿手前にある御柱の木落としの現場へ寄りました。
御柱石碑 模擬御柱
△ 天下の木落とし坂と記された石碑△ 屋根の付いている模擬御柱
木落とし場 木落とし坂
△ この場所から御柱を落とす△ 御柱を落とす木落とし坂
石碑 かねの像
△ 来迎寺境内の和泉式部の守り本尊「銕焼地蔵尊」 地蔵さまと「かね」の像
街道石碑 本陣
△ 中山道、甲州街道合流地点 △ 下諏訪本陣 岩波家
上段の間 資料館
△ 聴泉閣かめや の「上段の間(皇女和宮宿泊)」 △ 歴史民俗資料館
本殿 御柱
△ 諏訪大社下社秋宮本殿 △ 本殿四隅に立てられる4本の御柱


諏訪大社の御柱祭は、七年目の毎申・寅歳に行われる。樅の木を切り出し、
山から引き出す「山出し祭」が御柱年の四月、町内を曳行し
建立する「里引き祭」を五月に行うそうです。

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